Story

ウェイウェイ・ウー ストーリー

幼少時代1

幼少の頃、作曲家である父の影響を受け、5歳から、ヴァイオリンを習い始める。

時代は「文化大革命」。当時禁じられていた「西洋楽器」であるヴァイオリンを弾いているところを、もしも発見されたら大変な事態になる。カーテンを2重に引いて、近所に音が漏れないように練習し、練習する曲も万が一を考えて「毛沢東を称える曲」。

文化大革命が終了した年、小学4年生になる年に、上海音楽学院(日本の芸大のような、音楽大学の最高学府の一つ)のヴァイオリン科に、大変な倍率を突破して入学し、徹底的な英才教育を受け、寮生活で過ごす。

幼少時代2

当時のテレビ番組、CASIO提供の「家族歌合戦」に両親、そして妹の、後に日本でもデビューした歌手のaminと出演し、グランプリを受賞。

当時は他の番組がほとんど無い時代だったので、視聴率は驚異の90%超えの番組で、現在でも、最近知り合った上海出身の中国人に、その時の「番組を見た」と言われるほど。

二胡との出会い

二胡との出会いは、15歳の頃、ヴァイオリンで「メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲」を練習中に、そのメロディが「東洋的」と感じ、「このメロディを二胡で奏でてみたい」と思ったのがきっかけ。

文化大革命の影響が残っていて、街中に二胡を弾く人が居た時代。ヴァイオリンと比べたら「簡単な楽器」と思っていたが、実際に弾いてみるとヴァイオリンとは違う難しさがあり、同時にその音色の「奥深さ」を改めて実感し、強い興味を覚えた。

青春時代

その後、ヴァイオリンと二胡の両方を勉強できる「上海戯曲学校」に移り、優秀な成績で大学を卒業後、国営の楽団にヴァイオリニストとしての就職が決まった。しかし、両親に「1年だけ」という約束で1991年に日本にわたる。ちなみに、国営の楽団に勤めるということは「国家公務員」と同等で、「約束された将来」ということなのだが、「持ち前の好奇心」が勝ち、日本行きを決めた。

来日の理由

青春時代に上海で流行していたのが、竹脇無我さん主演の「姿三四郎」や、山口百恵さんの「赤いシリーズ」などの日本のドラマ。

母、妹と一緒にヘアスタイルを「百恵ちゃんカット」にするほど憧れていて、「日本に行って、姿三四郎や百恵ちゃんに会いたい」というのが主な理由。日本に着いたら、柔道着を着て街中を歩いている人がたくさんいると思っていたが、誰も着ていなくてがっかりした。

もう一つの理由は(こちらが表向きの理由)、「ソロのヴァイオリニストとして独立するために、将来的にはアメリカで勉強したい」という希望があり、当時は直接アメリカに行く手立てがなく、まずは日本で勉強をしてからアメリカに行く方法を探すためだった。

来日当初1

ほとんど日本語も話せず、知り合いの方に成田まで迎えに来てもらい、京成線に乗って日暮里経由で、初めての日本での下宿先の「東長崎」(西武線)に向かう。

その電車から見える景色に、愕然。日本といえば、「赤いシリーズ」で見たような東京の都会をイメージしていたが、電車から見える田園風景を見て「ここは本当に日本?!」と思った。さらに、下宿先に到着し、知人が帰ったあと、両親に無事に到着した旨を伝えるために、駅前まで行き、公衆電話を探したが、来日した日は5月3日。
正しくGW真っ最中で、GWを知らないウェイウェイ・ウーは、閑散とした駅前の雰囲気に、更に驚き、「日本は、なんて人が少ないんだろう!」と、来日早々にホームシックに陥った。

上海のような「にぎやかな場所は無いか?」と駅前を歩くと、唯一、派手な電飾と、元気な音楽や音が流れている場所を発見。中を覗くと、人々がピカピカ光る壁に向かって「仕事をしている」と思った。後に分かったことだが、それは中国には無い「パチンコ屋」。それで少し元気が出て、公衆電話に入り、両親に無事に到着したことを報告できた。

来日当初2

日中学院で日本語を勉強。その後、桐朋学園でヴァイオリンを習い、毎日のように、当時池袋にあったレコードショップに入り、「試聴機」で色々なジャンルの音楽を聴いていた。ある日、ステファン・グラッぺリのジャズヴァイオリンを聴いて衝撃を受ける。

ウェイウェイ・ウーの知っている「ジャズ」は、「上海バンスキング」に代表されるような「SWING」で、もちろん、自身がずっと習ってきた「クラシックのヴァイオリン」ともまるで違う。ショックを受けて、自分でもステファン・グラッペリのように、ヴァイオリンを弾いてみようと試みてみたが、子どもの頃から染み付いた、姿勢を正しく、譜面の通りに弾くクラシックのスタイル。自由に弾いたら、まるで後ろで見ている先生に叱られる、といった感覚から抜け出せず、できなかった。しかし、二胡で試してみたら、自由に弾くことができた。

ウェイウェイ・ウーにとって、二胡は、最初から「伝統曲を弾くための楽器」では、なかった。今でも、ウェイウェイ・ウーがよく言う言葉だが「私にとって、二胡は『真っ白なキャンバス』のように、自由に描くことができる」。それが、現在のウェイウェイ・ウーの二胡の原点とも言える。

来日当初3

ヴァイオリンと二胡、両方を持って日本に来て、学校に通う傍ら、仲間との演奏活動を開始した。当初は、ヴァイオリンが中心で演奏していたが、ライブでは「数曲だけ」二胡も演奏した。すると、圧倒的に二胡の方が評判が良く、いつの間にか、演奏活動に関しては、二胡を弾くことのほうが多くなった。しかも、自分の弾く二胡の音色で、涙を流す人がいることにも驚かされた。

日本に来てしばらく経って、あるイベントの際、二胡で演奏をしたあと、一人の女性が楽屋にやってきて、こう言われる。「私に『胡弓』を教えてください」 当時「二胡」は「胡弓」と呼ばれていた。まだ、カタコトの日本語しか分からなかったが、「日本人が二胡を弾く?!」という驚きと同時に、とても嬉しく思い、自宅で二胡を教え始めた。少しずつだが、生徒が増え始め、それが、現在の「心弦二胡教室」の始まり。

本格的な音楽活動1

数々のグループで演奏活動を開始し、さまざまなミュージシャンともコラボを開始する。
その時点ですでに両親との約束の1年は過ぎていたが、日本での音楽活動に魅了されて「もう少し」「もう少し・・」と伸ばし伸ばしにしていた。

その後、1996年、元爆風スランプのドラマーの「ファンキー末吉」さんと出会い、「五星旗」という、ロックバンドに参加する。
二胡は本来「座って弾く」のが基本だったが、「座っていてはロックではない」と思い、「スタンディング奏法」を始め、独自の演奏スタイルを確立した。
その過程で、「エレクトリック二胡」も開発したが、二胡本来の音色が損なわれるために、それほど長くは使用しなかった。

五星旗

本格的な音楽活動2

2001年、五星旗を卒業し、本格的なソロ活動を開始し、ジャズの老舗の「銀座SWING」でのライブ等、多くのミュージシャンとコラボするようになり、その時の経験が現在のウェイウェイ・ウーの音楽を形成するようになった。

銀座SWINGと系列のSWING CITY(現在は閉店)の出演回数は100回を超え、現在も年に数回出演している。初期のウェイウェイ・ウーの代名詞とも言える、ジャズの名曲「Spain」は、この時期に演奏をし始めた。

悠久の歴史を感じる二胡の音色でジャズやロック、クラシックを演奏することは、当時では考えられないことで、「二胡は真っ白なキャンバス」というウェイウェイ・ウーの、ウェイウェイ・ウーたる所以。
同時にウェイウェイ・ウーは言う。「自分の分身である二胡。そこには喜怒哀楽があり、優しいだけではない。可愛くもあり、時には攻撃的にもなるし、時には涙を流すこともある」

メジャーデビュー

2002年、知り合いを通じて、ワーナーミュージック・ジャパンより誘われて、メジャー・デビューを果たした。

徐々に「二胡」という楽器が世間に認知されるようになったのだが、ウェイウェイ・ウーのスタイルは、バラードだけにとらわれない、幅広いジャンルの音楽を目指し続けることに変わりはなかった。

「癒やし」と「伝統」だけではない「二胡」という楽器の可能性を追求し、「二胡をピアノやギターと同じ、メジャーな楽器にしたい」という目標を持つ。

数々のテーマ曲

これまで、数々の番組テーマ曲等を担当。
「戦国BASARA」などのゲーム音楽や、「ドラえもん」などのアニメ作品、サントリー烏龍茶のCMなどにも参加。
特に、大きな反響があった曲として、NHKの長寿番組「ダーウィンが来た!生き物新伝説」のエンディングテーマ曲「ボイジャーズ〜イースト・ミーツ・ウエスト」で、世界的なサックス奏者のケニーGとの共演、近年ではTBSのテレビドラマ「JIN -仁-」でも、二胡を担当し、その「Main Title」を聞いて心弦二胡教室の門を叩く人が増えた。

二胡教室

上記「二胡をメジャーな楽器に!」という気持ちを持ち続け、心弦二胡教室を主宰し、多くの後進を育てている。
1993年に発足し、今年で30周年を迎えている、二胡教室の草分け的な教室で、現在約250名の生徒が通い、伝統曲中心の二胡教室とは一線を画している。二胡の譜面は「数字譜」が基本だが、心弦二胡教室では、「五線譜」で二胡を弾くことを推奨している。
なぜなら、ピアノやギターと同様、「音楽の共通言語」である、「五線譜」や「コード」を勉強することが、「二胡をメジャーに」という信念の具現化だからというウェイウェイ・ウーの強く思うところ。

作曲

ウェイウェイ・ウーは二胡を「自分の分身」と、常日頃から言い続けている。それは、前述の「真っ白なキャンバス」と同様。

ウェイウェイ・ウーが作る曲は、そもそも「二胡」を前提としていない。降ってきたメロディを、それが、喫茶店や電車に乗っているときなど、あらゆる場所で、その場で、五線譜を持っていないときでも、例えば喫茶店の紙ナプキンなどに、メロディを「数字譜」で書き留める。「数字譜」の良いところは、数字の羅列なので、紙と鉛筆さえあれば書き留めておけるところ。

音楽は「気持ち」の現れであって、楽器を前提として作曲するとどうしても「制約」がある。自分の「思い」を伝えるのが音楽であり、その後に「楽器」で表現するというのが、ウェイウェイ・ウーの作曲スタイル。

CDとコンサート

ウェイウェイ・ウーはメジャーデビュー以来ほぼ毎年のようにリリースをし続けている。それは、アーティスト活動の原点が「曲」であり、時代は、アナログレコード、カセットテープ、CD、そして配信へと変化してきたが、今後もCDをリリースしていく方針に変わりはない。

配信を否定しているわけでは無いが、やはり、手にとって、ジャケットを見て、ライナーノーツを読みながら音楽を聞くというスタイルが好きだから。そして、同時にコンサートも大事にしたいと思っている。同じ時間に、同じ空間で、演奏する側と聞く側が「共有」できる「感動」が最も大切だと思っている。先にCDを聞いてコンサートに参加するのも良いし、コンサートの感動の「記憶の記念」としてCDを会場で買うのも良い。さらに、その場でサイン会を開くことは、直接聴衆と触れ合える大切な時間だと思っている。

コンサートは、毎回、バラエティに富んだ選曲で、これまでの「ゆったりとしたバラード中心の二胡のイメージ」からはかけ離れている。初めてウェイウェイ・ウーのコンサートを見た人は、口を揃えて、「二胡の概念が変わった」と大きな感動を持って帰宅する。

性格

ウェイウェイ・ウーの性格を語る上で、最も重要なことは「好奇心」と「まずはやってみる」という、ポジティブさ。ほとんど日本語が分からないのに、「楽団員」という「安定した公務員としての道」に満足せず、無鉄砲に来日したことでも分かるように、好奇心とバイタリティの塊として、現在に至るまでその姿勢は変わらない。

「やってみないと分からない」というのが口癖で、とにかく「良い、悪い」を、やる前から判断するのではなく、まずはやってみて、その結果、続けるか止めるかを決める。
それは、音楽だけではない、基本的な「生き様」。

日本語

ウェイウェイ・ウーは音楽家なので、当然耳が良い。なので、日本語も「語感」で理解している節がある。そもそも「天然」のところもあり、数々の言い間違いがある。

例えば、カーナビで、「2キロ先に故障車が居ます」と聞いたとき、運転していたマネージャーにこう言った。「今、2キロ先二胡奏者が居ます!ってどういうことですか?!」

例えば、あるライブで、「夏といえば?!」と一緒に演奏していたミュージシャンに質問したとき、そのミュージシャンの答えが「入道雲ですね」と言われ、「入道雲」という単語を知らなかったウェイウェイ・ウーは、巨大な「蜘蛛」を想像してしまい、その想像に固まってしまい、ライブが中断!
日頃から流暢な日本語を話すので、周りのスタッフも「上海出身」ということを忘れてしまうが、例えば「ダルマさんが転んだ」も知らないので、「入道雲」を知らないのも無理はない。

つい先日も秋田の「いぶりがっこ」の話題になったとき、ウェイウェイ・ウーが言った言葉は「びっくり学校って、なんですか?」

アイデンティティ

2010年、来日20周年を迎える前年。
ウェイウェイ・ウーは、自分の「アイデンティティがどこにあるのか」という自問自答に悩んでいた。

上海に生まれ、上海で育ち、自分のふるさとは「上海」という自覚と同時に、上海の急激な発展に驚き、戸惑い、上海に戻る時に、成田空港で、上海の「ガイドブック」を買った。上海に戻る度に、自分の思い出とは違う街、風景。自分の生まれ育った「上海」との違いに「違和感」を覚えた。そして、日本の習慣、日常の方が、今の自分に沿っているという感覚。国籍も中国のまま、日本で過ごし、いつの間にか日本に居たほうが落ち着くという感覚。中国から日本に戻り、「味噌汁を飲むと、ほっとする」という感覚。

その年に発表したアルバムは「Back to the・・・」。 「・・・」に意味がある。
「自分はどこに戻りたいのか」 「自分はいつの時代に戻りたいのか」 「自分は誰のもとに戻りたいのか」 そして、「自分のアイデンティティはどこにあるのか」

上海のカフェにて

東日本大震災

2011年の東日本大震災の時、ウェイウェイ・ウーは「来日20周年」の年だった。記念コンサートを企画し、その準備真っ最中に「東日本大震災」が発生した。折しも、その日は、以前参加していた「五星旗」の復活ライブの前日だった。震災直後、多くの、ふるさと上海の友人たちから言われたのは、「そんな危ない場所に居ないで、早く帰って来て」という言葉。
しかしウェイウェイ・ウーが出した結論は、「日本に残り、日本にいる多くの『大切な人たち』と一緒にいたい」という気持ち。その理由を考えたとき、そこに、前年の悩みだった「自分のアイデンティティ」の回答があった。

自分のふるさとは2つある。上海も日本も、自分にとっての故郷であり、大切な場所だということ。
ウェイウェイ・ウーは、地元の武蔵小山で、チャリティ・コンサートを実施。翌年は、東北ツアーも実施し、被災者の方は無料でご招待をし、特に、福島いわき市でのコンサートでは、桜の樹の下で涙を流した。

中国公演

これまで、何度も上海を始め中国各地で公演を実施してきた。中国では「伝統楽器」としての認識が強く、ウェイウェイ・ウーの演奏スタイルは驚きを持って迎えられた。
それだけではなく、主宰する二胡教室の生徒たちも一緒に演奏し、驚きを通り越した称賛を受けた。考えてみれば当然の話で、逆を考えれば理解できる。もしも、中国から三味線を持った一般人100名近くが来日し、三味線の伝統曲ではなく、ポップスやロックを演奏したら、多くの日本人が驚き称賛するに違いない。

上海音楽庁コンサート

コロナ禍

コロナの時期、予定していたコンサート、ライブが全て中止になったが、そこで、何もせずに静かにしているウェイウェイ・ウーではない。
相変わらず、CDを作り続け、そして、とった行動はネットの活用だった。

YouTubeの自身のサイトに積極的に映像をアップし始めた。Stay Homeの時には、皆さんの日々の疲れを癒やすための音楽を10日以上連続で届けたり、特に「医療従事者の方たちへの感謝」を表現するために「JIN-仁-Main Title」を生徒さんたちの参加を募集してそれぞれが自宅で撮影した映像を編集して発表した。

また、ライブができないからと、毎月「WeiWei’s Station」とタイトルして、毎回ゲストを呼んで、無料の「生配信」も実施。
同時に、主宰する心弦二胡教室でもZoomによるレッスンの開始や、各地にいる「二胡愛好家」のために、「二胡上達への道」と題して、惜しげなく自身のレッスンをシリーズで無料配信し、多くの二胡愛好家やこれから二胡を始めたいと思っている人たちに展開し、絶大な好評を得ただけでなく、「WeiWei’s Music Boutique」というネットショッピングサイトの運営を開始して、多くの譜面やレッスンビデオを届け始めた。

妹、歌手、aminとの別れ

前述にもあるように、ウェイウェイ・ウーの妹は、日本でも活躍した歌手のamin。

「家族歌合戦」のグランプリを取ったことで、巫洪宝(父)ファミリーは有名になり、妹の巫慧敏は、中国での最初の「アイドル」としてデビューした。しかし、姉同様、好奇心の強かった妹も姉を追いかけて数年後来日し、歌手としての新たな道を選び、ユーミンさんとのコラボで紅白歌合戦にも出演した。

そんな妹aminは、数年前にガンを患い2021年夏に他界した。
そのaminが他界する直前まで心血を注いでいたのは、日中友好。日本の子どもたちが参加している合唱団と、ふるさと上海の子どもたちが参加する合唱団との交流を企画し、上海と日本での発表会+交流会などを実施していた。

他界した直後は、打ちのめされ、音楽に向き合うこともできずに数ヶ月を過ごしていたウェイウェイ・ウーだが、納骨のために上海に戻ったとき、aminの親友からこう言われた。「aminの意思を繋いでいけるのは、姉であり、音楽を続けているウェイウェイ・ウーしか居ない」

その言葉で、ウェイウェイ・ウーは再び音楽に向き合う決心をし、妹の意思を受け継いで、「自分が、妹の分まで『日中友好』の架け橋として活動しよう」と決めた。

世界遺産

これまでに、世界遺産の「白川郷」と「熊野古道馬越峠」のオフィシャルテーマソングを提供。
どちらも、先方からの依頼で、「白川郷」は、第1号の「観光大使」にも就任している。
上海出身のアーティストとして、ウェイウェイ・ウーはとても光栄と感じ、白川郷、熊野古道でのコンサートを実施。

最近の趣味

上記の「性格」でも分かるように、「興味を持ったらすぐにトライ」。中国茶やヨガも趣味の一つだが、最近の趣味は「ゴルフ」。

幼少の頃からずっと音楽漬けだったので、スポーツは基本的に苦手。走ったり泳いだりするのは得意ではないにしても、それなりにやってきたが、「球技」に関しては、ほぼ経験ゼロ。
2013年に、乞われてロッテマリーンズの始球式に参加した際にも、野球はおろか、ボールを持ったこともなかったので、その投球フォームは野球ではなく「砲丸投げ」の様だった。

そんなウェイウェイ・ウーだが、知り合いからの誘いで、2022年からゴルフを始めた。
最初は「お付き合い」だったのだが、始めてみたら思いの外楽しく、今では「ハマる」ほどに、ゴルフに夢中。

ロッテマリーンズの始球式

これからのウェイウェイ・ウー

「二胡をメジャーな楽器に」
「日中友好の架け橋」
この2つが、これまでもこれからも変わらないウェイウェイ・ウーのやるべきことだと自覚している。そのためになることであれば「なんでもやる」と決めている。